戦後日本を代表する起業家、稲盛和夫さんが逝った。セラミック部品から出発したメーカーの京セラ、情報通信の第二電電(現KDDI)という異なる分野の大企業を創業し、晩年には日本航空の経営再建を主導。既に鬼籍に入った松下幸之助さん、本田宗一郎さんらと並ぶ名経営者だった。
若い頃の稲盛さんは何度も挫折を経験した。太平洋戦争のさなか、旧制鹿児島第一中等学校の入試に2年連続で失敗。空襲で実家は焼失した。志望した大阪大医学部薬学科への入学もかなわず、就職活動も第1希望の石油会社には入れなかった。鹿児島大の恩師の紹介で、京都の碍子(がいし)メーカー、松風工業に技術者として入社したことが、その後の人生を方向付けた。
入社して最初の仕事は、ブラウン管用のセラミック部品の開発。2年目でこの事業を軌道に乗せたが、間もなく開発を巡って上司と衝突。それを機に退社して、27歳で京都セラミック(現京セラ)を創業した。
発足したばかりの会社は、20歳前後の駆け出し技術者と中卒の工員ばかり。その一人で、元京セラ会長の伊藤謙介さんは「難しい仕事に尻込みする若い我々に向かって、稲盛さんが『これをやったら素晴らしい未来が開けるんだ』と夢を与え続けてくれた」と後年振り返った。従業員と稲盛さんは寝食を忘れ、工場に泊まり込んで製品開発や製造に取り組んだという。
稲盛さんの経営の真骨頂は、精神性の重視と合理性の両立にある。利益や現金の流れを常に把握するキャッシュフロー重視の会計システムの確立▽社内の小集団ごとに採算と時間当たり生産性を把握するアメーバ経営――など、今では多くの企業が取り入れている経営手法をいち早く導入した。その半面、「ビジネスは需要を見つけ、注文を取って初めて成り立つ」との考えに基づき中長期の経営計画は策定せず、足元の経営環境から設備投資や材料買い付けなどを判断するスタイルを確立した。
高収益企業に京セラを育て上げた稲盛さんは、日本では異色の経営者でもあった。「自由な競争がなければ、公正な社会の発展はない」という信念に従い、硬直した現状の打破に挑み続けた。
政府が通信自由化を打ち出す中、海外と比べて高い通信料を安くしようと、京セラが中心となって第二電電企画を1984年に設立。翌年には第二電電(DDI)に事業許可が下りた。“ガリバー”だった電電公社(85年の民営化でNTTグループ)の牙城を突き崩すことが狙いだった。DDIは2000年に国際通信大手KDD、トヨタ自動車系の携帯電話会社IDOと合併して、通信大手の一角を占めるKDDIとなる。
その信念は政界にも及んだ。自民党1党支配を崩す2大政党が必要との持論から、09年の政権交代前から民主党を全面的に支援。長く日本の財界が自民党政権と共同歩調をとる中、独自路線を貫く稲盛さんの言動が注目を集めた。
政権交代を実現した後も民主党への協力を惜しまず、10年には民主党政権に請われて会社更生法を申請した日航に会長として乗り込んだ。「伝統や歴史の中で培ってきた企業文化そのものを大きく変えないといけない」と考えた稲盛さんは、京セラで培ったアメーバ経営を日航に注入。「親方日の丸」とも揶揄(やゆ)された体質を変えようと挑んだ。
自らの考えを伝えるために酒を酌み交わして語り合う、京セラ流の「コンパ」も導入するなど各職場を精力的に回る一方で、人員や赤字路線のリストラを断行するなど冷徹な経営者としての一面ものぞかせた。
他の経営者と一線を画した独自の経営哲学は国内外で関心を集め、「平成の経営の神様」とも称された。中国などでも稲盛さんの著書はベストセラーになった。
「平成の経営の神様」 京セラやJALで手腕発揮 稲盛和夫さん死去 - 毎日新聞 - 毎日新聞
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